アルダのダ~2ndシーズン~

駄文を連ねることしかできない

推しに逢うては推しを殺せ(再掲)

 新しいブログがあまりに殺風景なので向こうの記事を再掲します。

 こんにちは、アルダです。西川家の元メイドではありません。悪しからず。
 最近、アイドル関係でオタク周りがわいわいしていますね。オタクは今日も元気です。世界はちっともよくなりません。

 しかし、一オタクとしてはそうも言ってもいられないもので、いい機会だし普段うだうだ考えていることでも垂れ流しておこうかと思った次第で、このブログを書いています。

 といっても、何について話そうかと考えてみるとなかなか湧いてきません。ガチ恋の是非とかいろいろ問うところはあると思うのですが、その辺は僕が問う資格があることとも思えません。頭が悪いので事件から得た感想を雑に述べることしかできません。というわけで、このブログでは「推しを殺さないためにどうすべきか」について考えていきたいと思います。ほぼほぼ自分語りにはなってしまいますが、ご容赦ください。

 僕が事件の話を聞いて一番恐ろしく感じた事は、「いつ自分が推しを殺す側にわからない」ということでした。流れてくる言及を見ていると「推しを殺すような異常者オタクはいらない」「一部の異常な人間がやっていることに過ぎない」という意見が一気にバズっているような気がしますが、僕にはそうは思えません。人間は環境によっていつでも被害者になり得るように加害者にもなり得るものです。少なくとも僕については彼の過ちをなぞらないという自信はありません。きっかけがあれば、今話題になっていた名前や写真は僕のものだったかもしれません。誰でも陥りうる立場だと思います。かといって許されるというわけではないですが。

 では、どうすれば推しを殺さずにいられるのでしょうか。
 一つの解決法としては推しを殺す前に自殺することですね。他界も穏当な方法でしょう。でも、この方法で満足できるのであれば当の昔にしているわけで、実際問題これができないから苦労しているところがあります。そこで、どうにかオタクを続けながら推しを殺すリスクを抑えられるか考えてみたのですが、結論としては推しを殺し続けるしかないのではないかと思います。

いや、どういうことやねん。と言った感じだと思うので、もう少し詳しく話そうと思います。オタクは誰しも推しのイメージを自分の中に持ちつつ生きています。愛するものを自らの中に持たない人間はそれを愛することはできないからです。神は私たちが神を愛する対象として扱えるように自らを開示しました。そして、愛するときに行う動きへの反応はイメージによるものが現実に存在する推しの反応に対して先行します。中にあるイメージへ投げかけた際の反応を元に、現実の推しへの対応を勘案するのである意味現実の推し以上に重要な存在と言ってもいいのかもしれません。そして、そのイメージを現実の反応と限りなく一致させていく作業が推しの理解という作業であると思います。問題は、このイメージの反応が必ずしも一致するものではありません。これは推しへの理解が足りないという次元ではなく、ごく身近な人間であっても(むしろあればあるほど)起こりうることです。これに対する対応を誤ると実際に推しを殺めてしまう結果につながっていきます。

 もちろん、普通はそこまで行く前にせいぜい数日病んだのちに新たなイメージを形成するぐらいですむのでしょうが、この出来事は数限りなく起こる以上、いつ歯車が狂ってしまうかわかりません。元を絶たなければこの連鎖が終わることはありません。
 そこで、何よりもしなければいけないことは、自己の中にある推しのイメージを絶えず無化していく他ありません。先に推しの反応を試みることなく、ただそのまま愛するしか方法はありません。ただ、この作業は非常な苦痛を伴います。自己が作り上げた推しのイメージは大抵の場合、自己の願望を含んだ自己自身でもあります。それを否定していく作業なのでほぼ自己否定を徹底しているのに近い苦痛が付きまといます。また、この作業に終わりは見えません。先ほど述べたように愛するものへのイメージ無しに愛するということはほぼ不可能に思えます。無化したと思えたイメージでもいくらでも新たなイメージとして表れていきます。たとえ、一度それに成功したように思えたとしても、その経験がまさに新しい推しのイメージへと変わっていきます。かつては香木や牛の脂の供儀を喜んだ神も、イザヤの時代にはそれを喜ぶことがなかったように、過去の経験は容易に愛していると思っている人を過ちに導きます。「推しに逢うては推しを殺せ」という状態を貫くほかありません。

 この状態は安らぐことはありません。絶えず続く苦です。絶えず続く苦の連続で、かつ推しを愛し続けなければいけません。しかし、前述した通り、過ちを防ぐためにはこの道しかないように思えます。もっとうまく折り合いをつけられる方がいればご教授いただきたいです。

 と、ここまでうだうだ書いてきましたが、結局は肉でしかないものに執着すべきではないといった気がしてきました。う~ん、俗世捨てるか~。

 まあ、そこまで考え込まずに好きなものは好きでいるのが一番健康にいいし、正解だと思います。健常に産まれたかった。

 クソ長激重ブログな上にすっきりしない終わり方となってしまいましたが、もしここまで読んでくださった方がいたらありがとうございました。適当に叩いてくだされば幸いです。